国産ウヰスキーの父 マッサンその②
マッサンは宿命全中殺の宿命である。宿命に天中殺を所有している。だが誤解して欲しくないのは、宿命天中殺があることは単純に良い悪いとはいえないのである。
人物紹介・主な出来事
竹鶴 政孝1894年明治27年6月20日生まれ
父・敬次郎(元々分家の製塩業。後見で本家の酒造業を一旦継ぐ)
広島県賀茂郡竹原町(現竹原市)出身
四男五女の三男である。
幼少期好奇心旺盛であり、相当暴れん坊だったとの事。
当時広島の酒造業界は三浦仙三郎を中心にライバル兵庫の抜群のブランド力を持った「灘酒」に負けぬ酒造りを開始。「吟醸づくり」の技術を確立し、酒には不向きとされた広島の軟水から高品質の酒造りに成功し灘・伏見とならび日本の三大名醸地と称される西條酒の始まりとなる。
1907年品質だけを純粋に競う「第1回清酒品評会」において広島のお酒が1位、2位を独占。
これを契機に各地で精力的な酒造りを開始。父敬次郎の厳しい酒造りに大きい影響を受け、厳しい信念を貫いた政孝の品質主義は広島の環境と父を通じて生まれた。
忠海中学時代遠距離通学を苦に3年生の進級時、寮生活を開始する。1学年下にはのちの総理大臣池田勇人がおり、池田が亡くなるまで交流が続いた。池田は国際パーティーでは国産ウイスキーを使うように指示した。当時池田少年は政孝の布団の上げ下ろし係であり、政孝は寮長、柔道部主将を務めていた。
兄2人が家業を敬遠した為、大阪高等高校醸造科に進学。卒業を控えた1916年3月新しいお酒「洋酒」に興味を持ち、先輩の岩井喜一郎(当時洋酒業界の雄の摂津酒造「のちに合併し宝酒造」常務)を頼り卒業を待たずに入社。
宿命道本文
天中殺って何ですか?
大事な事だから何度でも授業で登場する話である。
日常においては一日における夜に相当し、夜は休息の時である。つまり運勢の休息の時である。その天中殺が宿命になくても、生きていれば大運、年運、月運、日運と天中殺は巡ってくる。
運勢の休息の時は、
活動期に活躍できるだけの力を充電する為に「受身」で過ごす。それが禍を避け天中殺に合った過ごし方となる。この時積極的に行動するのが良くないとされるのは、日常で考えれば夜寝ずに働くことに相当する。当然、寝る時に働けば収入は増えるかもしれないが、疲れた体で仕事をすれば効率が悪いし、禍となりやすい。
授業では受身とは何かについて理解を深めて頂きたい。
話を戻そう。
宿命に天中殺を持っているマッサンの成功のカギは何だったのか。
宿命中殺がある人はお金や名誉などの現実性ではなく、思想や哲学、芸術などの精神性を重んじた生き方をすることが生き方に合っている。それに加えて妻リタさんの存在が大きかったと考えられる。結婚運の悪いマッサンを支えた国際結婚は、宿命を消化する上で欠かせない要素だからだ。
生年中殺を考えると親縁の薄い彼が、
父とともに酒造りができたのはなぜであろうか。二人の関係は酒造りにおける厳しい師匠と弟子に相当し、一般家庭のそれとは異なる家族関係である。
これは人体図における親の場(上司、習得本能)と兄弟(同僚、守備本能)の場が異常になっている状態を消化している姿といえる。本能の異常は極端に優れるか冴えないか、いずれにしても平均的になりにくい。
少年時代に地元広島の酒造りが、
品評会において認められた。それは広島の軟水では不可能とされた高品質の酒造りの成功であり、常識を覆した瞬間である。
純粋に本物を追求するという彼の生き方の土台となったことは間違いない。宿命が全て中殺されているという事は、常識にとらわれない生き方ができることであり、今まで誰もやったことの無い世界へ挑戦できることでもある。
つまり彼は宿命に合った生き方をしている。また少年時代に柔道部後輩に池田勇人(第58~60代総理大臣)との出会いがあった。
翌年、
諸事情から三男でありながら酒造りの為に大阪工業高校醸造科に進学することになる。この頃、当時珍しい新しい酒「洋酒」と出会う。その事で彼の運命が大きく動き出していく。
次回をお楽しみに 2018年5月21日発行 宿命道 復刻